日記 2019年10月10日 木曜日

ツイッターにリンクを貼ったらブログの内容がそのまま載っているのが恥ずかしすぎたのだけど、編集の仕方がわからんすぎるのでこうやって適当に書いてごまかしている。
そろそろいいだろうか。ていうかなんやねんこれ。
 
2019年10月10日の日記

 

 
なぜか朝6時に目覚ましが鳴ったので無理やりに起きた。

坂本先生から借りた本を読んでおきたいと思ったのか、メイクに時間をかけるためかは覚えてなかった。足先の感覚がなくなるくらいには空気が冷えていて、秋が来たな~と実感する。猫を抱きしめると安心した。その代わり服は毛まみれになる。

 

 

電車に乗り、大学へ向かう。ナーバスな状態になればなるほど時間は早く過ぎるもので、やっぱり坂本先生に会うのは精神的負担が大きいんだと思った。しかしなぜあんなに惹かれるのだろう。坂本先生のことが好きなのに、彼のことを何にも知らない。
そもそも先生のことを本当に好きだといえる自信がない。
そして答えが出ているから会いたくないのだ。そこから生まれるものは悲しみとお別れだし。

 

坂本先生は優しい。何でも教えてくれるし、すぐにダメだとか無理だとか言わない。
あと品があって教養があると思う…かっこいい
先生の喋り方は例えるなら濁りのない小川みたいだ。澱みがなくて、せせらぎみたいな。百人一首にそういうのあったな。晴れた春の日の…。
先生の共通の知り合いが一人もいないので孤独に見える。見えているだけだけど、私のように人から意見を聞いたりしないと自分の決断が下せないような弱い人には見えない。先生の過ごしている時間は1分も無駄がないみたいだ。どうしてそんな印象を受けるんだろう。

 

教室をのぞくと先生がいた。一気に筋肉がこわばる。こわかった。何もしゃべってないのにもう泣きそうだった。負けるなよ。

 

そして先生と少しの間話した。30分くらいかもしれないし1時間たっていたのかもしれない。掴みは少しだけあった。でも8割伝わっているか…といったところだった。
結構泣いた。申し訳なかった。でも先生が迷惑そうにしなかったのが救いだった。トラウマにならなくてよかった~。

 

話の中身
・男性恐怖症のカミングアウト
・講義で先生が怒鳴ったり机を蹴ったりしていることで先生を怖いと無意識で思っていたこと、その裏返しで信仰に近い好意を抱いたこと(虐待やDVに見られがちな原因が自分にあると思い込んでしまうやつ、心理学部なのに名前忘れちゃったよ。)
・先生の何気ない一言で「先生」じゃなくて「男の人」になってしまったこと

とか。

 

これで会うのが最後なのかなと思ったので質問をしようと思ったけれど何にも出てこず。

 

そこからわかったこと
私が求めていることは、物事を正しい視点からみること。でも意見が持てない。なぜなら内在化している問題を言語化できていない→だから違和感とか言っちゃう。
つまり無知なのだな!

 

Twitterより

 

平和的に解決ってほとんど無理な話で、やっぱり対立しているところからお互いの妥協点を見つけていかなくちゃいけない
私は何か「わかりあえない」が基盤にあるので(だからこそ分かり合おうとする意欲につながるのだが)、「それは悲しいなあ」「優しくないなあ」「仕方ないなあ」で終わっているから、私自身が平和主義なのかと思っていた。でもそれは責任放棄で、優しくない。あと確実にめんどくさがってるよね。

 

悲しいなあと思うだけなのは、私が「かわいそう」みたいな形式に近くて、ずるくて。
だからポリシーに「勝つ」というのがあって。でも勝つって正しさの証明ではないよね。
正しくありたいと思うんだけど正解はどこにもない。

 

私が和解を諦めきれないのは(先生のことも諦めきれていないし)、理解したい、だから理解してよねっていう執着があって、執着の根源は孤独だ。そこさえ満たされればいいから信仰が一番適切な形なんだろう。先生のことを妄信的に好きだったのはそういうことなんだと思う。

 

孤独とは寂しさで、信仰は寂しさまでカバーできるんだろうか。多分無理だ。だって生きている人を信仰の対象にしたらリターンを求めるようなる。
なおかつ、信仰は妄想を生む。だから期待が誇大化する。さらに妄想にかけた時間とその人の価値は比例している。多分時間をかけすぎると引き返せないところまで行ってしまう。だから信仰対象は故人の方がいいのは納得がいく。

 

 

だから先生を勝手に信仰するのは適切ではない。先生は求めた分しか与えない。
先生として至極当然だけどそこに寂しさはある。アッサリしているから。
山口先生みたいにご飯に行ったりできないし、雑談もできない。

 

先生と二人で勉強することをあきらめたくないといった。
優しめの言葉で欲張るなと返された。最初は意味が分からなかったけれど山田さんに相談してみたら、先生が怖いっていうのと、先生に教えてほしいということを両立させず怖い思いをしない方策をとるのが良い→「欲張らんとき」なんじゃない?といわれて合点がいった。

 

そこからはまあぶっちゃけ向き合ってほしかったよねという話になったけれど、
まだ未熟な私(だってまだ19歳なんだも~ん)にいろいろ手を焼いてもらうより、立派に育った私を、それこそ言葉の通りかわいがってもらえるようになれば良いんじゃねってなった。男性恐怖症が治って、社会学もたくさん蓄えることができてから。別に約束もしてないし保証もないが。

 

コンプレックスは自分にとって絶対的な規律になることを最近知った。
だから、私は「正しく」なければならないと思っていたが、正しさ≠やさしさだ。
優しさは時に厳しく、時に悲しく時にウソにもなる。そして受け入れることは一概に優しさとは言えない。受け入れることは相手を背負うことになる。

自己犠牲は優しさではないからな~。だから私は強くなるべきだと思た。

 

強くあるべきだろ、そのために知識を得なければ何も始まらないんだな。
だから勉強するのか。うーん。筋が通っているかはわかんないけど、勉強するのは悪いことじゃない それに大学生だからたくさん勉強したらいいと思う。

 

いま19:09、ほとんどの店が20時で閉まるのでお散歩してから帰ろうと思う。
抱えている企画とか自己の在り様の模索、パリの絵を描くこととか、やることがたくさんある。がんばってね。