日記 2020年5月20日 水曜日

日記 2020年5月20日 水曜日

 

世界に興味ね~~~~~~~~~
身体が思うように動かない。のに、ストレスがある。爆発させることができない…。
多分ストレスの受け身が取れなくなって疲憊期に入ったんではないだろか。

 

先日上げた日記にて、大学教員や研究者のツイートを見るのが楽しみになっていると書いたが、訂正する。もう飽きた。
昨日の深夜、結構尊敬してた人がしょうもない理由でキレ散らかしてて、「はあ」となってフォローを外した(別に怒ることは好きにしてって感じなんだけど)。その人を尊敬していたい気持ちが自分の中には確かにあって、自己防衛的な手段でリムーブしたんだと思う。

 

やっぱり信仰は消費活動なんだと思った。結局、自分のニーズに合わなければお役御免ということか…。信仰に対価を払うのは当然で、そのための労働が信仰の価値を上げている。

 

飢えている方がいいのは知っている。だって、腐った培養液に浸かってるみたいだったあの時は、消費活動を頻繁に行っても、見ている景色、咲いている花にさえ満足することができなかった。生き地獄だったな~と思う。

ただ、孤独に酔うとえらく自分が愛くるしくなる。悲観的というよりかは被害者ヘブンで、なんというか…ほどほどでいいのに。

 

↑は自己陶酔で、自己犠牲ではない。他者との関係がない。
自分は従来の「生活に根付いた」信仰を求めている。

 

去年の夏休み_四国旅行とパリ旅行へ行く直前のはなし
居ても立っても居られなくなり、横尾忠則美術館と兵庫県立美術館をハシゴしたことがあった。未来への期待度が絶頂にあり、非常に能動的で受け身として順応しすぎていた。夏全体が一つの生命体みたいで、隆盛を極めていた。もれなく私もその一員だった。

そんな中、音のしない空間で調光と温度/湿度管理を施された芸術作品を見ていると、夏に飲み込まれていた自分の身体が、ふと、遠くに追いやられるような…生き急いでいると思い知らされる瞬間があった。その感覚は限りなく救済に近かった。

 

べつに、芸術が我々に何を与えてくれるのか、芸術に出会うことで起こりうる変化とは何なのかとか_(?)こういう観点から芸術を語るみたいなことを、ペダンティックに語るつもりは全くなくて…
信仰の結果が救済であるなら、芸術を極めることも信仰のプロセスに近似していると思う。

 

ほんとうに悪い癖なんだけど、ダレて活力のない自分を無理やり生に近づけようとして、ダウナーな何かを摂取しようとすることがある。
エロティシズム的手法だなと思う余裕もない。死にたくないなあと思わなければ生きていくこともできない無力な自分に吐き気がする…
生活が元通りになったら自分はどうなるんだろう。ここまで体感時間が遅い毎日を送っていると気が狂いそうだ。てか気がくるってないとやっていけない。

末恐ろしい(明記は避ける)ものを見て、悪寒を感じることに中毒性を感じて_死体に性器をこすりつけて悦に浸るような、おぞましさがある。自分がどうなっていくのかわからない。
生きている人間が一番怖いのは言うまでもないが、人とか、そういう次元を超えた先に禁忌ってあるのだろうか…とか、ワー収集付かなくなってきた。人間の形を留めるので精いっぱいだ。ホントはトリップしたり、トんでみたい。多分ど~でもよくなって帰ってこなくなる気がする。知りたいという欲求は満たされても、明確化したいと思うあまりに足場が崩れそうな危うさがある。だから、私はきっと誰かの体験を追憶する機会に立ち会うことしかできないんだと思う。
ワタシ自身、こういうチャンスを逃さないために勉強しているんだろうな。

 

 

誰か助けてくださいとか_その誰かは、私しかいない。

 

 

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ザーって流したらこの写真だった 身に覚えがない