日記 2020年5月23日 土曜日

日記 2020年5月23日 土曜日

 

久しぶりに晴れていたので家を飛び出した。妹の服を借りて、髪の毛を下ろし、香水をつけた。新しい靴(ナイキのアクアリフト。色はブロンズ)も注文したし、栞も買った。読みかけの本にレシートとかを挟んでいた日々とはおさらばだ。

美術館はどこも閉まっていて、ただ汗をかきまくって神戸の街を練り歩いただけだけど、緊急事態宣言が解除されているので心苦しさを感じなかった。
日傘は買えなかった。今日一日で結構日焼けした。バイトの収入がない(休業補償どうにもならなかった)ので金に困るが、それなりに楽しくなれている。

 

本題

 

見田宗介の「まなざしの地獄」を読んだ。山口先生の部屋(研究室?)を訪れたときにお勧めしてもらった一冊で、私は新書でしか見田宗介を読んだことがなかったから、なんとなく物腰柔らかに、単純明快に、というイメージだった。湊川商店街のはずれにあるデニーズで読んだ。読了するまで1時間もかからなかった。

 

ほんとうは寝たい。もう2時やん。さすがに連日眠れなさすぎる。私が寝ていないことなど誰も知らないし、べつにどうでもいいんだけど、眠るチャンスをふいにしてまでわたしは何を書きたいんだろう。本当に馬鹿らしい。ただ、今年に入って初めて寂しいと思った。

まなざしの地獄の衝撃というか、内臓に鉛が詰まったみたいな感覚に、しばらく助けてくれーと叫びたい衝動に駆られた。
N.Nはまるで自分みたいだったし、救いがない…私の生きている時間は2020年だから、1960-70年のことはわからない。わかっていることは、苦痛を凌げてしまうようになっていること…苦痛を緩和する術を身に着けてしまった。だって「それなりに」やれてる。表面上は改善されているように見える。
50年前に生きていた人は何を訴えようとしていたのだろう。
もはや混沌を極めている現代社会が、この怒りを受け止めないどころか___私はあなただと思えてしまう浅はかな思考にアイロニが存在していた(ように思う)。
解説には、N.Nだけではなく様々な人たち(少年、青年)の存在を織り交ぜて「まなざし」を展開してたんだけど、わたしは彼らを知って、これからどうするのか、なにをしたいか、皆目検討もつかないことが余計に辛かった。その結果が今日まで続く「まなざし」であり、絶望に打ちひしがれる他なかったように思える。

 

痛いほどわかる。私も名前が欲しい。存在を獲得したい。

 

先ほど寂しいと述べたが、この本を読んで感じるやり切れなさを共有することができない人間関係の希薄さに寂しいと思ったのかもしれない。

 

この過去を本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である。
「戸籍」がN.Nを絶望に追いやったのではない。「戸籍」をもって差別する社会の構造がN.Nを絶望に追いやったのだ。
(「まなざしの地獄」より引用)

 

階級の実存か…。しんどいな。
無駄のない文章、切れ味すごいな。胸が苦しい…。

 

まだ書きたいことが山ほどあるのだけど、もう目がかすれて何も見えないくらい疲れている。また後日、数少ない友人に話したいと思う。
それでは寝ます。

 

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