日記 2020年7月9日 木曜日

2020年7月9日 木曜日

 

朝起きると父がいて、雨が降ると教えてもらった。いつもよりも声が明るかったので嬉しかった。メイクを済ませて家を出る。

 

今日はショウゴと1ヶ月ぶりに会う。

11時に待ち合わせして千と千尋の神隠しを観た。お腹が空いていたのでチュリトスとアイスティーのセットを頼んだ。私はシナモンで、ショウゴはチョコ。

 

私が千の両親が豚になるまでのシーンが一番好きと言ったらエ〜と返された。まあそりゃそうか。回帰の瞬間が良いんだよと言ったらわかったようなわかってないような顔をしていた。

 

ショウゴは音楽がかかるとすぐに首を振るし、何かと感動することがあればすぐに泣く。この間クレヨンしんちゃんの映画を観に行った時開始15分くらいで泣いててビックリした記憶がある。

今回も3回くらい鼻を啜る音が隣から聞こえてきた。

 

最後に映画を観たのは緊急事態宣言前で、久しぶりにスクリーンに集中して観る映画がジブリ作品で良かったなあという感想を共有した。2001年の映画ということは私たちは2歳?なので、テレビでしか観てなかったということになる。

 

映画が終わって、たくさんの感想を共有した。服を見て回る名目で集まったがそっちのけだった。15時に差し掛かろうとしていたので空腹になり、食事を取るためパンケーキ屋に入った。

 

ショウゴはなんだか変わった。俗っぽくなった。と言うとTikTokをインストールしたし、スキンケアに力を入れていると言った。霞を食って生きてるみたいだったショウゴに一体何があったんだろう。

しばらく話し込んで、私とショウゴはお互いの立場を逆走しているみたいになっている事がわかった。私は自分の内側に、ショウゴは外界へ。

 

話は批判と誹謗中傷の話になった。ショウゴはもともと超が付くほどの保守派で、政治の話でよく揉めた。(岡山県の瀬戸内で6万円のディナーを食べた時にも消費税10%の話で不穏な空気になったのを覚えている。)

ショウゴは批判の必要性はわかるけど、それによって改革された制度の犠牲者(今まで受け取っていた恩恵が受けられなくなること)が居た堪れない、という主張をした。

それを聞き、自分の手が途端に冷たくなっている事に気が付いた。ああ、「使命感」!怒らなければならない!

 

私は、それはあなたがマジョリティだから批判しないっていう選択を取れるんだよ、中立って存在しない 絶対に偏るから中立の実現をみんなで目指してるんじゃんと主張した。

 

ショウゴにあの時の告白をするか非常に迷った。が、結局、「あの頃冬季鬱だったからショウゴと話さなかったと言ってたけど、実は本当の理由が別にあったんよ」と切り出してしまった。

 

ショウゴの部屋であの話を聞いたとき、私はもうショウゴのために怒れなかった。あなたが(私のように)エネルギッシュになれないと言うけど、私たち女性だってできることなら穏やかに生きていきたいんだよ。でも、人権が危ぶまれているような事態なら、サバイブしなきゃいけないじゃん。ショウゴは、今の状況に甘えていたいだけでしょ。信じることは疑い続けることで、ショウゴのは盲信だよ。時代は変わるんだよ、などと、捲し立てた。

 

今回は、今回だけは絶対に譲らない。ショウゴとちゃんと友達になりたい。

時折、手を温めるために祈る姿勢を取った。

 

私の今まで培ってきた全ての力を信じる。だから届いて欲しい。今まで何人切り離してきたんだろう。無碍にさせるものか!

 

過去に、坂本先生の個人指導を受けた際に「その道で食べていくつもりはあるか」と聞かれた事をショウゴに相談し、その事件が起き、何時間もボロボロ泣いたことがあった_それもあと少しで1年が経つ、ああ、ここまで長かったな。

ショウゴに日頃から思っていたことを幾つか指摘をした。ショウゴは混乱した__と思う。「まずは知ることからだよ」と続けた。

 

そして、ショウゴから、私に対して「私のことを好きにならないでね」と言った(文脈は割愛する)話を持ち出し、私と同じ気持ちだったと言った。あの発言は、その怒りから生まれたささやかな抵抗だったと。

ショウゴは出会った頃から「限界が来れば諦め、距離を置く」と言っていたので、その返報性に驚いた。

 

ショウゴとようやく和解できた気がする、と思った。2年間の確執だった。お互いの「ささやかな抵抗」を告白したことが、この後何をもたらすのかわからないけど、私はショウゴともっと仲良くなれると思う。

 

ショックだよね、怒られてるみたいに感じたりするでしょ。と言うと、「そりゃあね!でも、直して行かなきゃ」と明るく振る舞われた。行き過ぎた正義の行使を恐れていたので安堵した。

 

2時間半話してパンケーキ屋を後にした。

 

私は今まで返報性ではなく評価を目的に全力でコミュニケーションを取ってきて、日本語がうまく話せないために悩み、さらに相手を困惑させてしまっていた。しかしどうだろう、以前の日記で「感情を説明することしかできない」と書いたが、あれが訓練になり、今日「和解」というひとつの形で努力の実を結ぶことができた。

 

勉強していく中で、成長している実感を感じる機会は少ないが、意外と日本語が話せるようになっていた。それが嬉しかった。

 

再度服屋を回り、店員さんとたくさん話した店でショウゴが3着の服を購入した。

帰り路にインドカレーの話題になり、食べたことがないというので流れでインドカレー

食べに行った。

バターチキンカレーとチーズナン、チキンティッカのセットを半分こして食べた。一つのプレートを2人でと顔を寄せて食べるので少々気を遣った。適切な距離を取ろうとして度々カレーをこぼしてしまった。

良い休日だった。

 

家に帰ると通販のものがいくつか届いていたので開封した。

 

いまからゼミのレビュー論文を片付ける。最後の調整が一番メンドくさい。

後回しにしてるやつばっかりだから。

 

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いっつもこういう写真ばっか

 

閑話休題

 

ショウゴが「俗世間を知るためにTikTokをインストールした」ことに対して、「老人がスマホ持つようなもん」と言ったこと、エリが留学で学んだことを日本人観点から「異文化」としてフィードバックしていたことなどの違和感について考えたい。

 

私は人の「選択」をライトに肯定したいと思っていて、だいたい「へ~良いねそれ」で終わることができるのだけど、どうしてかこの2件に対しては素直に頷けない。

おそらく、その選択を取るにあたっての根拠に不十分さがあるのだと思う。

ただ言語化は慎重に行いたいので、焦らずに行くつもりではあるが、「非常に限定的すぎる」という側面に一体どのような危険が潜んでいるのか関心がある。

ただ、今日はレビュー修正がある。後日に回す。