モラトリアムおわり

モラトリアムおわり

 

2022年3月31日

 

人生最後の春休みも終わりを迎える。

大学生らしいこともしないまま、それなりに労働に勤しみ、だらだらと過ごした。

完全に惰性だった。仮免も取得してから3か月以上経ち、交通法のあれこれも完全に忘れ去ってしまった。

実際、春を待つ間は毎年こんな感じで鬱に悩まされながらも地道に生きている。緑が生い茂らない季節に知らない土地に訪れても“元来の”魅力が半減しているように感じてしまうので結局神戸から出ないままでいる。

健康的な身体に恵まれているとはいえ、今年は特に抑うつ状態が酷かった。去年に恋人ができたので愛の力でこの冬を楽しく乗り切れるのではないかと期待していたが、実際はあちらの多忙により正念場の3月に全く会うことができなかった。恋人に時間を割いてもらえなくなった私は脳のあちこちで説明できないようなバグが起こって、思考が完全に停止してしまったのだ。この日記を書いている今も使いたい言葉の半分も出てこず、固くなった頭を必死に回そうとしている感覚がある。

毎年恒例の冬季鬱真っ只中の私なら迷わず死を選択していた所を、恋人のために生きているなら死ぬことは諦めた方が相手の為になっていいんじゃないかと死の欲動以上にメサイアコンプレックスが働き「死にたい」と直接的に思うことはなかった。絶望の裏側にはただ虚無が広がっており、エロスとタナトスの反転も起こらない。要するに、死という臨界点がなければ絶望の底に触れることもできず、「死んではいない」だけの状態になってしまったのだ。

私は愛に生きる人間だと公言しているけれど愛の実感は相手が居なければ得られないので、終ぞや何のために生きているのかさえ分からなくなってしまった。どのような異常が起こっているのか把握することができないからには、問題解決の糸口さえもつかめない。どうやら私は愛に生かされ、また、愛に殺されようともしていた。

また、恋人との相互理解にも問題があった。元々お互いの性格の相性は極端に合わず、理想を追い求める私にとって恋人はあまりにも現実的すぎた。

 

あーついに 愛してしまいました 普遍的な男を

一人の人間として接してくれることで、私は自身の思考回路に異常な偏りがあることがわかった。恋人からは隷属する喜びとは別の選択肢を提示してくれたように思う。とはいえ、これは個人の戦いでもあった。急に自立することを求められることと、現実的な恋人に大義を捧げられないのは大きな課題だった。恋人には「自分を大切にすること」と口酸っぱく言いつけられてきたが、どうやら私の生きる喜びが私自身を大切にすることと結びついていないらしい。私にとっての最上の喜びは身を削って大義に尽くすことで、私自身じゃなく私の行動を評価してもらいたい。その為なら手段を厭わないし、何でも犠牲にできる。性格上の不都合と、「会えない」という現実的な問題による愛の配給がないことから、いよいよ私は参ってしまった。

 

自ら孤独を選ぶことで真に自由になれた気がした

午後0:30 · 2021年10月31日·Twitter for iPhone

 

反転(仮称)についてすこし明らかにしておきたい。いつの間にか私は絶望に鮮烈な快感を覚えるようになった。V字回復、堕天(堕転)、臨界突破_既存の近しい言葉から形容することを試みたが、表しようがない。エロティシズムの実践で体現することは容易いが、どうにか齟齬なく人に伝えられたらと思う。この快感は全能感に近く、私にとって生を感じる最上級の体験なのだ。神からの啓示_いわゆる宗教的体験がこのようなものなら、宗教のシステムほど魅力的に見えないものはない。思考回路をフローチャートに落とし込んで、どんな障壁も怯えずに立ち向かえるような活力が欲しい。あわよくば愛を自己完結にして、代わりのエネルギーを自家発電できるようになれたらいいのに。

そうして私は年末辺りからカスタマイズ宗教を捜索し始めた。愛を救済には充てられない。なぜなら愛は生の実感としては二次的で、対象がなければ成立_自己完結しないからだ。救済と思っていた昇華の領域は権威が備わっていなければならない。また、芸術とは他人に評価されることで始めて成立する。愛と同じだ。カスタマイズ宗教を創造したところで正気に戻ったらおしまいだ。課題はある。矛盾しているところが多すぎる。だけど多くは望まない。ルーティンでいい。信条があればいい。祈る対象があればいい。自分の中で意義があって、厳かに取り扱えるものであればなんだっていい。

 

閑話休題

明日は入社式なのでペディキュアを落とし、爪を切り、こうして日記を書いている。

学生最後の春休みは、明石海峡大橋で過ごした。高架下のカフェでスナップを撮ったり、TMGEのサブリナヘブンを聴いたりした。親からプレゼントをもらった。私が自分の卒業祝いに買ったジュエリーブランドと同じでドキッとしたけれど、ネックレスだったため被らずに済んでよかった。親と顔を合わせて真面目な話をするのに慣れていなくて全員でアハハと沢山笑えたのはいい経験になった。

区切りは大切だ。明日から社会人だ。自分で責任を負えるようになって、ようやく一人前になれる。いいことだ。社会の一部になれば生きてて良い理由もきっとすぐにあやふやになってぼんやりと寿命を消費していくのだろう。それが幸せの形にぴったりとはまれば、私はこの希死念慮とうまく付き合っていけるのだろうな。私はあと何年夢を見ていられるのだろう。

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ビーチコーミングしたがすぐに飽きてスケッチした