孤独について

身体が重くて冷たい。頭回るし、どうも貧血らしい。

 

過去の自分の日記を読んだ。何だコレ~!?書いたの自分なのにちゃんと面白い!や、別にオモロないねんけど、あほなこと書いてるなあと思ったり、今ではほとんど忘れてしまった真剣な悩み事を思い出したり、また病んだり、感情が忙しかった。

 

日記っていいなって思った。今では冬季鬱と自粛期間のせいで日記らしい日記こそ書けないが、自分なりにブログは書いていた。その期間のを読み返すと全然オモロない。やっぱり日記がいいんだ。

 

知らんところで成長したり、または落ち込んだり。

感想としては、自分坂本先生のこと好きすぎやろ。去年の後期13回しか会ってないのにほぼほぼ毎日登場してるやん。ええんか?ええか。

 

 孤独について
2020年5月16日 土曜日

 

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孤独についてずっと書こうと思ってた。私は外界とのつながりや季節、知識や技術に興奮を覚えるのだけど、他人とのつながりに満足したことは一度もない。
だから歩き回るんだと思う。行動の根幹に孤独があるのは自覚してます。

 

人から見た自分は、能天気の割にしっかりしてるし、一生懸命だし、それなりに報われてるはずなんだけど、「それ」はいつまでも満たされない。

 

も~、ホンマ人に期待せんほうがいい。
所詮他人、自分に影響があるかどうかで交際の是非の判断をする。私に影響与えてくれる人なんか片手で数えるほどしかおらん!あとの皆はなんなんやろなア。結局、ゲゼルシャフトの中で知り合って、資本主義によってつなぎ留められているだけだ。
ウ 坂本先生も…そうなんかな…

 

関わるだけの人なら山ほどいる。他者と自分のニーズが合致したことがなく満たされないと考えるのが妥当で、決して孤独ではない。質の話ですか?
質_、、ただ話を聞いてくれて、理解してもらえるだけでいい。難しくない。

 

端的に言えば、コミュニケーションに求めているのは返報性ではなく「承認」なのでズレが生じる。あと趣味がマイナーすぎる。世代にそぐわない。

カーッ。興奮を共有できた試しがない。サッカー観て「ウオー!」と抱き合い絆を深める(経験を共にする)とき、私はそこにいないし、私が「ああああああああ!」となっても、隣に誰もいない。自己完結せざるを得ないのだ。
社会性は備わっているので相手に合わせてなんとか気に入られるのが関の山__こんなの終わってる。救われたい…

 

 私には信仰がいる。

 

信仰というのは言葉の通り信じることを指すんですけど、春休みに自分だけの宗教を作ろうと奮闘し、あえなく失敗に終わったほろ苦い思い出がある。

 

脱線するんだけどNetflixの「ミッドナイトゴスペル」が新鮮で面白かった。

 

↓以下感想ツイート

 

自分は自己認識論とかジェンダー論とか「生」に執着してるけどやっぱり宗教は「死」にフォーカスしてる部分が多いと思ってさ〜〜死って全然興味ないからビックリする事いっぱいでベリベリinterestingなのが良い

ミッドナイトゴスペル完走

 

Don't hug me. I'm scared を見た時もそうだけど、これを作り上げるにあたって沢山のスタッフが同じビジョンを共有していることにすごく希望を感じたな。自分の思想を完全に共有したことがないから羨ましくもあるんだけどね

 

思えばエロティシズムも禁忌に極限まで迫ることで抵抗(生)を感じる思想なのでホント新鮮だったなって…死は無なんだけど、だからこそ解釈に無限の可能性があるんだ

 

お終い

 

閑話休題

 

信仰というか、信じることに限定すれば、個人間で結ぶ契約に対しての姿勢に興味がある。おそらく結婚が一番近しいものじゃないだろか。結婚には全く興味がないけれど、結婚を経て、関係性がどこへ向かおうとしているのか知りたいと思う。

 

性愛じゃない愛っていいな~。愛着っていいな~。一生を共に過ごす覚悟と、社会的な契約を結ぶ意味に憧れる。多分、誠意を指す。

 

私はセックスができない。別にできるけど、それでは意味がない。性愛の段階を飛ばして愛着を育むことはできないのだろうか。
愛し合う実感って大切だと思うよ。だけど、そのコミュニケーションの手段がセックスなだけで、結果じゃないじゃん。

 

この間、結婚間近のカップルが慎重にコミュニケーションを取っているのを見て、「あ~これに一番類似している関係性って他人ではないか」と思った。
しかしカップルと他人同士、誠意はあっても「愛」がない。さらに誠意のベクトルが違う。相手のことを知らないから慎重になるのと家族になる覚悟を慎重に伝えるのは天と地の差だ。

 

語るに及ばない。嘆かわし~。

 

孤独に焦点を戻したい。私のわがままを叶えられるのは私しかいない。いつだって自分の欲望に素直に動いてきた。人によく見られたい(気に入られたい)という欲求も同様だった。
「サバちゃんて良い人だね。」
そんなわけあるかい。

 

コミュニケーションに全力を注ぎすぎるせいで山口先生からブツカリ稽古という名称をつけられたりした。短期戦に限るけど、自分の納得いくまでやることが多い。
しかし報われないことの方が多くてメチャ疲れる。だって相手はそこまで望んでないし、自分は感謝してほしいわけでもない。

ていうか!ほんと、言葉の通り自分で納得するまでやるだけで、結果は相手に委ねられていない。のに、あなたがそこにいる。所謂、皆様の見せる誠意と、私の欲求に素直な行動から読み取れる誠意は交差しない。ただ平行なだけなので、類似しているけど「違う」のだ。

 

孤独は自己愛の結果なのでしょうか。

 

過去の日記を読み返すと、「自分は実力もないのに、燻ぶっている(原因は環境にあると思っている)と勘違いしそうになりすぎてこわい。」て感じの文章をたくさん目にした。

確かに、まだ自分の特性をうまいこと発揮できてないよな。ただ、社会や事象を理解するより先に自分を理解することの方が重要でさ。だって是非とか最初からないから「どこから見るか」の視点を養わないといけないんでしょ。
まだ二十歳だし。土台作りに勤しむのをおざなりには出来ないよなあ。

 

結局、選択は間違ってはない。ただ、代償として孤独を迫られるのは納得がいかないのだ。
ヤマダさんが「勉強すればするほど独りになるっていうからね」とよく慰めてくれる。優しいなあと思う。孤独と不安って近い場所にあるんやわ。このままで良いのかすごく不安だ。

 

確信が欲しいから信仰が要る。不安さえなくなればどこまでも進めると思う。

 

キーワード
「孤独」「信仰」「不安」

 

今ずっと家にいて先生と会話できないし勉強してインプットできてる手ごたえもなくて、まさに孤独だなあと思うんだけど、昔から独りなのは変わってないし、多分皆部屋で一人でいるので、私だけがということはないんだよな。
同調や連帯という言葉の取り扱いが難しいけど、心的つながりを信じることには支障がないと思いたい。

 

大きな力で、人(々)のことを導くのではなく、信じたい。それは愛とかいう。(過去のブログより)
愛~~~~~~!!!??
信仰よりも熱があって、肉みたいにやらけー!変容するし、裏切りもありますけど!
しかし、我ながら人ってのが具体的じゃないあたりが良いな。

 

孤独を語ることが、嘆くことだけじゃなくて良かった。とりあえず今は充分かな。

 

またこうして自己完結に満足して眠るのだ。だれか褒めてくれ。褒めるって、語感がウットリしてていいよね。じゃ、寝ます。