「わたし」を振り返って

「わたし」を振り返って

 

2019年、たった一年で大きな変化があった。

 

ざっと挙げると、

 

・私のすべてのトラウマと対峙、乗り越える。
感想:あっけなかった

 

・20歳を迎える 
感想:本当に死ぬと思っていた。あっけなかった

 

・坂本先生に教えを乞い、直々に社会学を学び、知見が広がる。
そこから大学院に行くという夢ができる。わからないことを突き詰めてもいいと知る。

 

・今年はより一層関心のある勉強をすることができた
感想:たのしい

 

・わたしの中で「変容」が人生のテーマになると知る
感想:パーペキ

 

・大切な人が亡くなる
感想:私の「これから」につながると思う。

 

・金属光沢が好きだと知る 大きなミューズになる

 

MUSEにめちゃくちゃハマる

 

閑話休題

 

優雅で品位のある言葉をたくさん知りたい
教養が喉から手が出るほど欲しい
私も言語化のしがらみから自由になりたい
人の心を掴んで離さない、激情を巧みに操りたい 私も美しくなりたい

 

ときに私は人の歯を抜き、身体を売り、学生でもあり、太っていたり痩せていたりを繰り返している人間なのに、と思う
近寄られると面倒くさい
私の時間を他人のために消費したくない、のでベクトルが空を切っている
誰か私を見つけてくれ 助けてください

 

私たぶん、私のことを大切に守るために、丁寧に自分の内側を形にしていかなくてはならないのだな

日記をなぜ書いているのか、日記のその先にやるべきこと、あと2年の大学生活で何をすべきか明確にすることができたぞ えらい

Twitterより)

 

というのも、私はわたしを愛している。
私の存在の証明というほど大業なものではないが、自己表現を行わなければならないと日に日に感じるようになった。

なぜかというと、「言語化」への信頼が崩れたためだ。
私の言語化のスキルや読解力、思慮深さが坂本先生に圧倒的に劣っていると思い知らされたあの日から、「わからないこと」を「わからない」と言う以外にたくさんの手段があると知った。

そこが芸術の救いである。もとから芸術に触れていてよかったなと思う。

 

言語化の統制力の裏に潜む恐ろしさや、感情を「規定」される恐ろしさはフェミニズムを知らなければわからなかっただろう。
私は日記のその先へ向かわなければならないのだ。

 

自己表現を言葉以外で行うことによって「自己呈示」を簡易化すると共に、何かを成し遂げたという達成感を味わうことができる。

 

自己肯定感を上げると、わたしはポテンシャルをそのまま発揮できるだろう。
私の「核」をメインにしてはいけない。
いわゆる仕事はサブでなければその心はいつか折れてしまうと危惧している。ので、このあっという間に終わるであろう残りの二年を使って私の自己表現を思う存分行うことが大切だと考えた。

 

勉強→吸い込めるだけ吸い込む

それを言語化を伴わない自己表現の場で芸術として昇華 今後の評価へつなげる

 

もちろんお金を稼いだりすることは大切だ。稼ぎ方じゃなくて使い方なんだと思う。

 

私は対人関係で頑張りがち(なぜなら友達がいないから)だが、頑張る必要はないなと思た。
コミュニケーション能力はずば抜けているし、社会的なパフォーマンスも申し分ない。
素の人格が私の「正義」に背いていないので偽る必要もなく、静かに「怒り」を燃やして行動するくらいには他人に尽くせるようになった。

 

大丈夫だろう。

 

そういえば私はいろんな人に刺激を与えることができるのを最近知った。
自身がエンタメ化しているのは否めないが、完全な理解についてはわたししか知らない。と割り切ることにする。

 

そういえば坂本先生に言われて嬉しかったことをまとめる。
・活動の方面にも、学術的領域でも力を発揮できるところ
・人の見分けがつくところ

 

強化したい。普通に生きていれば問題ないだろうと思う。

 

フラワーデモで、私が言ったことをなんとなく振り返る。

・デモで何かが変わるわけではないし、たとえすごい論文を出しても世界が変わるわけではない。

・相手が何かを言う前に事前に封じる、というのは常識を変えることが一番の近道だと考える。

・差別は起きてからでは遅い。なので私たちは今求められていることは「装い」を強く押し出すこと。NOとか。それが常識につながるのだ。


よし!だいぶまとまった!言語化はこの辺にしておこう。
2020年はもっと飛躍することだろう。頑張るぞ。

f:id:tkysmt9:20200101224316j:plain