バタイユのエロティシズムを読んで

2020年1月31日 金曜日

 

おととい、バタイユのエロティシズムを完読した。実をいうと全能感を感じている。

 

ずっと抱えてきた疑問を、バタイユは皮を剥ぐように解体し、骨を見せて語ってくれた(ように思う)。

個人の意見に正当性を持たせるためには、既存の規律に甘えない自律の姿勢が求められる。今まで、私の思想は屈服し続けていた。疑問を持ちながら…。
このイデオロギーは今後私を護る盾になるだろう。しかし、皮肉にも私の疑問を言語化するという目的において、隷従性が伴っていることを忘れてはならない。わたしの壁にもなり得る強大な思想なのだ。うまく浸透させ、飼い馴らさなくてはならない。

 

ざっと言えば、エロティシズムは厳密性の極限まで至る思想だそうです。

 

『わたしの中に絶対的な存在があるとして、それに影響されまくっているのはいささかダサい(オリジナリティがない)ので、意識して別の武器を取らなくてはならない。
じゃなんなら対抗できるか?って、坂本先生が話術なら、やはりわたしは言語化以外で自己表現を図らなくてはならないのだと……』
(1月29日 わたしのメモより)

 

さて、今日31日のお昼前に、大勢の人が善意をもって一人の人に接していたところを目撃した。私は出遅れたが、そのうちの一人になろうとしていた。
なんだか気持ちが綻ぶというか、ちょっとうれしい、誇らしいという気持ちになった。

新型コロナウイルスが大きな世界の流れとなっているけれど、報道を見て対策云々政府は何をやっとるんじゃと思っていた。ついでに、デマに踊らされたり、ここぞと言わんばかりのヘイトスピーチの数々…。
正直アホ共が晒されてゆくのをじっと見つめていた感覚が続いていたため、びっくりしたのだ。

 

あ~皆アホでもええかもしらん。だって思いやりとか善意ってアホ関係ないもんなあ。

 

そこでふと気付いた。
もしかして、もしかしなくても、私は自分の中の正義を持って人を導くのではなく、強い力で人を信じたいのではないか?と思った
自分の意見を持つには敵とか悪とか、相対する存在の片方しか選び取ることができないのではないか?

わたしは人を信じたいと思う 一方で自分自身を見失わないために、言語化を伴わない自己表現を身につけなければいけないんだ。

 

ッカ~!いや、間違いない。この気持ちに嘘はない。

 

というのも、最近私はずっと戦うことに疲れていたからだ。
この国では20歳になると成人…てことは社会的責任を負わなくてはならない。
わたしはセックスワーカー近辺の研究がしたくて、同時にこの国を変えたい、そしてリベラルフェミニストだ。←これらの構成要素すべて、責任をもって発信しなければならない。

ただ、セックスセックス言いまくったり、「それは差別ですよ」と指摘したりなど、実践を重ねていくうちに気付いたことがある。
今までは人にどう思われていても関係ない、と思っていたが、間違った人物像が浸透していたらどうする?と。

 

例えば、私はセックスの話を1日に3回以上する。私はいたって大真面目に話しているけれど、同時に人からはエンタメとして消費され、「私は言いにくいことをわざと言いまくる女」と他所との差別化を図っているサブカル女子(もちろん蔑称である)と認識されてしまう。最悪の場合、「小西はセックスをするのが好き」が暗黙の了解になってしまって、身の危険が及ぶかもしれない。
私は別に軽い女でいい…てか軽い女だ。でも自己と他者の認識にズレがあると、孤独を呼んでしまう。

 

そういえば女についてだけど、私は今まで女を道具にして戦ってきた。女特有の弱さで同情を誘ったりもした。
自分自身のことは女の皮をかぶった何かなんじゃないかと思うほど「女」でいることの執着がなかった。だからこそ、女らしくいることが幸せだという風潮が浸透している人たちに「かわいそう」といろんな支援を受けてきたのだ。「そうです、つらいんです~」と泣き落として終わり。

ただ、女だからという理由で人権が侵害されているとフェミニズムを学ぶうちに自覚し始め、今までの私は差別を逆説的に武器にして「お情け」を受けてきたのだと思うと屈辱でしかなかった。
女であることの誇りよりも、男じゃなくてよかったという安堵があった。
ただここ2年ほど男に対しての憎悪をフェミニズムという旗のもと、私の人権を侵害しているという「怒り」の正当性をもって発散してきた部分があった(実際に処遇の改善や謝罪があるかどうかは別として)。

それもなんだか疲れてしまったのだ。私は自分の顔は醜くてメイクをしても直視できないことがあるけれど、ふとショーウィンドーに映った自分を流し見すると、しっかり「女の子」なのだ。髪の毛は肩まであるし、唇の色はちゃっかりアプリコットオレンジだったりするのだ。

 

ブスでもしっかり女の子なんだよな。

男に「かわいいじゃん」「うっせーよブス」という評価を与えられるためにおめかししてるんじゃない。
多分、一生懸命私の魅力を引き出すためにメイクしてるんだけど、男が容姿の否定から入るのは、その「一生懸命」の否定が言葉を持たない女性の対抗心を根元から折るのを知っているからじゃないのか。と思ったのだ。
もちろん容姿の肯定も、男のためにあつらえてきたみたいな水面下での差別意識が働いている。

 

それら全部にほとほと嫌気がさして、しばらく私は確かな力を得るまでは迂闊に喋らないほうがいいなと思った。

 

同時に、類型化されてく人々の性質について、疑問を持ちながらもずっと「下」、いわゆる弱き人たちにどのようなアプローチをするのが正しいのか…と考えてきたけれど、私もある人からすれば弱者だ。
さらに、弱者と認識されて優しくされる_弱者でなければ優しくできないのか?という問いにずっとずっと苦しめられていた。

 

バタイユのエロティシズムはその苦しみの根幹さえも淡々と紐解いていった。
わたしはバタイユを信じたいなあと思ったのだ。
多分、根拠をもって「異常」と判断する人が多い中、その常識や規律に疑問を持つほうがずっと強く、優しくて繊細で責任を伴わない。と思う。

 

とりあえず、冬は大嫌いだけどある意味19歳までの子どもの私の集大成としてこの思想を持つのは素晴らしいことだと思う。しかもよ。成人するまでにパリに行きたいと思って、それを実行した先でエロティシズムに出会えて、、やっと大人としての自覚、責任、姿勢が見つかったのだからね。

 

てか人を信じるのは夢見がちなことではないからな!と、思ったきっかけは中国にある。
今年3月に中国に行くつもりだったけど叶わなかったので、早くあの国へ赴いていろんなことを知りたい。武漢加油

 

テストが終わってから温泉に行った。めちゃくちゃ寒いね。私の知らない間に雪が降っていたそうです。久しぶりに体重に乗ったら太っていました。でも筋肉がついてきているから気にしないことにします。2月はたくさん働くし、頑張ろう。

 

f:id:tkysmt9:20200131212755j:plain

 

追記
強い力ってずっと言い続けてるけど、それって愛なのかあ 愛ってなんか恥ずかしくない?ラヴ
Twitterより)

 

おしまい