日記 2020年7月2日 木曜日 §2

ここから先は2020年5月26日の日記(公開しなかったやつ)です。本当はちゃんとまとめてSBCのZINEに寄稿しようと思ってたんだけど紆余曲折ありお蔵入りしたやつです。

 

あ~、冬、マジで舐めとったな。取り返しつかへんくらい太った。過去最高記録行ったんちゃう?皮膚の中で脂肪が蠢いている。ウゾゾとする。呼吸するだけで大きく腹が上下して自分じゃないみたいだ…。
去年の夏はコンプレックスだった顔の肉が落ちて喜んでいたな。多分夏になればスルスル体重が落ちたりするんだけど、それまでのこの身体をどうやって愛せばいいんだろう。きっと長い付き合いになる。

 

もちろん痩せている自分が好きだ。成人してから性欲が全くと言っていいほどなくなってしまって、よく考えてみたらそのころから太りだしたんだなと。多分痩せている身体は自己愛の手がかりで、セックスは自己肯定のツールだったのかもしれない。

 

私が自分の身体を肯定するずっと前から女体には価値があって、私たちもそれに則ったり、はたまたそれが仇になったりしてきた。
なんだか釈然としないのは、そこに身体があるってだけで自らの手では何も作り出せていないではないかということ。生まれた時から他人に消費される方面では男よりも価値がある身体をもって生まれてきて、だから何だという話なのだ。くだらねえ

 

全然関係ないけどオルセー美術館のグッズ店で女性の下腹部をダイレクトに描いた絵のポストカードが売っててマジでビビったなあ(追記:ギュスターヴの絵でした)。
ただ、こう…美術館でこのように価値あるものとして展示されたり販売されると、揶揄される心配がないというか…守られているからこそポストカードとして扱うことができるんじゃないかと思ったりした。おそらく写実的に描かれある種のグロテスクさを孕んだあの絵は従来の女性身体の幻想を砕くような役割があったのかもしれない(当時はね)。

ただ、こっちからしたら女の裸とか特別珍しくないし、「肉体」って普通に現実だから伝えられるメッセージ性も限られてて(解釈の余地がないじゃん)、そこに映ってんのって女の裸体でしかなくてさ、いや、まあ堂々巡りなんだけど…
じゃ今から女性の身体性の方向変えていこうっていうときに、まだ飾るんだと思った。

 

価値は、誰かが必要としたときに生まれ、多くの人が望むと高くなる…需要と供給の比率に応じて変動する。
たまに「女はいざとなったら身体売って楽して稼げるんだからいいよなあ」と言われる。そこには羨ましさというより蔑視に近いニュアンスが含まれていると思う。「男性だって身体売れるじゃないですか」と言っても「そういうことじゃなくてね」と返される。そこに返す言葉は必要としていない時点で自己完結しているのは明白だろう。あなたは何を知っているのと言いたくなる。

 

時折、自分の身体に強い不安を感じて大学や駅のトイレで服をすべて脱ぐことがある。安心したり、嫌悪したり、…その時々で感想は異なるけれど、身体に対する並々ならぬ執着があるのだなと実感する。それだけではなく、私は裸で眠って朝起きて一番に鏡の前に立ち、満足するまで自分の身体を眺めるというルーティンがある。

 

あ、あと自分の裸の絵めっちゃ描いてる。とくに太りだしてから自分の身体を凝視する機会がさらに増え、ああなんて情けないんだろう、もう2度とこの身体になんてなるもんか。という気持ちも含めて絵を描いている。自分の理想の身体と、単に美しいなと思う身体は違うものなんじゃないか。

私は過食症なんですけど、結局太ることが病巣に対する唯一の抵抗なんだって最近分かった。痩せなければならない理由がわからない。ただ囚われている。「不備」があった時に対処できないから…。その「不備」こそ例の有事であり、他人に評価されて安心する自分が心底嫌いだ。セックスは下剋上なんですとか前に日記で書いたけど、下剋上ということは前提として私は下位にいることを認めてしまっている!ああマゾになりたい。サドマゾは表裏一体なんですけどね。

閑話休題 
太っている、肉に脂肪がついている…という実感をすればするほど、違和感が拭えなくなる。自分が太っていることを拒絶してしまう。その事実ごと、少しずつ自分の中で受け入れてようやく_私は“取り乱す”。
大丈夫なんかなコレ、という確認動作の中に含まれている「疑う」アクションが意味している事って何だろう、それって文字でいいんかな。「私は太ってしまっても案外大丈夫でした」ということを掲げるためにどれだけの葛藤があるのだろう。そういうとき、あ、私には絵があるなって。絵だけじゃなくて、写真もあるし、映像でも撮れる…。

 

身体表現ってこういうものであって欲しい。そういう祈りも込めて絵を描く。だから、私が身体表現をすることに価値とかなくていい だって価値って他人が決めたりするところあるやん。もともと女体に価値あるんってもやもやするなア。

 

私の身体は芸術じゃねー何でも美に昇華すんじゃねー

 

べつに身体のみに限定する話じゃなくて、セックスみたいな身体一つに収まる話でもないということを言いたいわけ。ここに2人分の身体があります、では合体!はいセックス!みたいなんじゃないやん。たまに、「セックス」のデカすぎる定義のせいで色々あいまいになる。
男性が異常にセックスに固執するところってエロスの集大成だと思ってるところがあるんじゃないのかね。私はたくさんの時間を費やしてセックスの意義を模索しているのに、なかなかそういう話までたどり着かないのは悲しいなあと思う。

 

私が女だから女の裸描くってワケじゃない ただ誰よりも自分の身体を知ってるってだけでさ、自分の身体の美しいところ切り取って何が悪いんかな。身体の所作の中で描かれる放物線が美しいんだと、その主張がこんなにも難しいと誰が言えよう。

 

結局、女として生まれてよかったなっていう実感と、女性としての性を生きている実感と、単にこの身体は生きているなという実感は全然違う…同一視しすぎている。

 

私のわがままを叶えてあげられるのは私しかいない、基本的に人との接触は特別なことだと思っているんだけど、男のそういう_何らかの能力が付随した女性身体を手に入れたい(または無下にしたい)という欲望に晒されたときの気持ち悪さは想像をゆうに超える。なのに、相手はそれを自覚することもないまま潰えていくのだ…。

 

わたしは、フェミニストと名乗る前から性差別に遭って生きていて、その実感を言葉にするのも、指摘するのも、いざ戦うとなった時の武器も自分で生み出さなくてはならなかった。おそらく多くのフェミニストがそうだろう。

試行錯誤のプロセスで何度も泣いた。愛想尽かしたたくさんの人たち。自分の無力感に苛まれ続けた。戦って、傷ついて、目まぐるしかった。その日々は激動でもなんでもなく、記憶として刻み込まれるだけだ。今でも、皮膚の下のジクジク痛む傷跡みたいに偏在している。乾いた風に晒され少しずつ生傷が固くなっていくような_「わたしは私」と言うためだけに、これだけの軌跡があったのだと_ジリジリ痛むあの感じを、「大したことなんてない」とか簡単に言っちゃだめだよ。

 

誰も悪くないなら、何にも変わる事なんかあらへん。

 

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説明は前編と同じ

 この頃初めてエロティシズムに出会って困惑していたのをよく覚えている、何も知らなかったし、疑うこともなかった私は「たぶん」美しい写真を自分なりに撮ってみようと奮起し、ホテルでこの二枚を撮ったのだ。意味を込めない身体表現は後にも先にもこの2枚だけ。