日記 2020年7月2日 木曜日 §1

2020年7月2日 木曜日

 

時間がないよと言い訳しながら騙し騙し生きながらえ、いよいよ7月になってしまった。
夏は何かを成し遂げるには短すぎるという言葉をよく聞くので、大きな目標は掲げないで地道にやっていこうと思えたのは大人になった証拠なんだろうか。

 

ようやく(まだまだ?)下半期に差し掛かったところではあるが、The StrokesのThe New Abnormalは2020年ベストアルバムだと思う、これほど絶望を柔らかく包み込んでくれる曲は他にないだろう。冬、息も絶え絶えで変化も彩もない生活から春になり、変化を感じることのないままやってきて…明らかに取り乱している。時は止まっているのに世界は大きく変動していく恐ろしさに耐え切れなかった。そんな中、世界と私をつなぎ止め、絶望と共存してくれたアルバムがこれだ。

MUSEがメチャクチャ好きで、わかりやすく心拍数が上がり日常に華を加えてくれる所に何度も助けられてきた。が、The Strokesはなめらかで、新しかった。その新しさというのが2020年なんだなという実感に大きく結びつけられた。新型肺炎がどう、みたいな具体的なものではなく、陽が傾いていくときのジワリとした時間の流れを体感するような_意味のない(局面のない)普遍的なタイミングで柔和に微笑んでいるみたいな_「変化」を搔い摘まんで見つめ直し、再定義するといった確認の動作が伝統的手法でありながら新しい感じである。(は?)よくわからんけど。知らんけど。

代表作とも名高いIs This Itを聴いたがしっくりこなかった。やっぱり一連の体験まるごとThe New AbnormalをThe New Abnormalたらしめているんだろう。てかこのブログ書きながら題名がThe New Abnormalであることを知ったんだけどドンピシャすぎて怖いわ(笑)

 

閑話休題

 

平たくいうと芸術分野の昇華の話になる。以前の日記で信仰の対価としての奉仕が創作活動で、その結果である昇華された作品に立ち会いたいという話を書いた気がするが、その難しさや私自身の姿勢について書いていきたい。また、姿勢の中には私の身体性も含まれる。

 

生活の充実を求めていながら、生活を犠牲にした創作活動による称賛に嫉妬している自分がいる。作品は昇華の産物であってステータスではないことは忘れていないにしろ、満たされない孤独から逃れられないでいる_行き場のない愛情をどこへ注ぎ込むべきか、という模索とその返報性の不安まで委ねてしまうから収拾がつかない。結局「どのように昇華へ持ち込むか」よりも思惟を綴るに至ってしまう。

文字に不安を委ねてしまうことはただ自分の感情を説明しているだけで、ありのままを受け入れてほしいという気持ちが内包されている。常套手段としてSNSが挙げられるが、発信源がわからない(個人のステータスが関わりにくい)匿名性、プライドや容姿、対人関係などのしがらみから解放されやすいツールなのは明らかである。SNSはどこまでも娯楽で、わかりやすく、片手間に「やったつもりになれる」ので手放しにくい。良くねえ~~~~~~~~~~~

 

次に、原動力について考える。私には世のため人のためと奉仕する喜びがあり、なおかつなんらかの力に圧倒されたいという欲求がある(それは対個人ではなく人の結束した技術の結果や、芸術を指す)ため、私自身を作り上げている要素がいまひとつ欠けている_言うなれば、材料と引き出しはあるのに手段は見つからない。結果、私自身のアイデンティティはどこにもなく、名義(小西桃花/金餮/サバちゃん)を用法(生活/創作/消費)によって分けることができない。昇華の要素に自身の価値を委ねられない(ありのままの自分を受け入れてほしいという矛盾がある)。つまり、何者にも成りきれない。

 

創作活動に対する姿勢について考える。私の今の身長は164センチで体重は51キロである。去年の夏は46キロだった。昔から痩せている身体を誇らしく思っていたが、今年の冬に過食症がひどくなりおおよそ10キロ増えた。ちなみに、囚われまくっているのは肉体だけではなく性行為も含まれる。今まで独立して書いてきたけどその関係性についても過食症を踏まえていつか書いていきたい。

 

痩せている身体に固執している理由はその囚われなさである。創作活動に没頭した結果の痩身というのは、生活に頓着していない_、つまりクオリティの説得性が増しているように感じるのだ。昇華の到達点がずっとずっと高くなり、よほど真摯に打ち込んできたのだろうと悔しくなってしまうのだ。

以前宗教について日記に書いたとき、「死」にフォーカスしている部分にカルチャーショックを受けた、だって私はエロティシズムを支持しているからと書いたのは記憶に新しいが、まさしくそれなのだ。死に近づき、生きている実感を快感に換える行為を手放せない。が、生きていくだけなら誰にだってできる。エロティシズム的手法でなくても、ふとした瞬間にここは神戸で、今までもこれからも神戸で時間の流れを感じるのだ_といった回帰の瞬間が、私にとってはとても重要だった。

マイノリティの生活はそれだけで意義があるように感じることがある。私は女(フェミニスト)になってよかったと思う。ただ、そのハンディキャップがなくても生活を肯定したい。

ああ、捨てきれない。創作活動にすべてを捧げられない。でも、どうしたって痩せている人は美しいのだ…。
注:痩せている人が美しいと思うのは生産者側としての立場から見て、私の理想像であるというだけである。一消費者としてfetishismを挙げるなら、私は筋肉が好き。

 

私が行う創作活動は生活の中の祈り、または、信じるものを体現させただけであって欲しい。生活の充実と不安の解消を纏めて昇華するなんてできない。だから痩せているからだが「それっぽい」ので心底羨ましいのだろう。

 

透け透けの下着も、ダイエットも、私のためだと言い聞かせてるみたいでよくわからなくなってしまった。もう一生満たされない欲求だから、それに気付く頭の良さって皮肉やなーとおもうねん
(2020/5/25 0:55 メモより)

 

多くの人々は、どのように愛するか、に関して手掛かりをもってないと感じている。
(中略)愛について語るよりも、喪失について語るほうがずっとやさしい。愛がないゆえの苦痛を言葉にするほうが、私たちの人生における愛の存在とその意義について語るよりも容易なのだ。

 

人生における基本的な相互依存は無視され、その結果分離と個人の利益が神格化される。宗教的原理主義はしばしば、本物の宗教的実践として示され、対抗文化的な宗教思想や実践が決して受け入れられないようなレベルでマスメディアに取り上げられる。
通常、原理主義者たちはどんな宗教の信徒であろうと、その宗教思想を保守的な現状維持に順応し、それを正当化するように解釈する。原理主義的な思想家は(racism)を支持することを正当化する為に宗教を利用する。彼らはあらゆる主要な宗教的伝統の中心にある愛による統一のメッセージを否定する。
それゆえ、宗教的教えを信じていると主張する多くの人々が、彼らの存在の習慣にこれらの信仰を反映させないことは驚くに値しない。
(ベル・フックス「All About Love」より)

 

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去年の夏の私 パリにて

 

osimai 後半へ続く