コロナウイルスと自己認識(論)

2020年3月20日 金曜日

 

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21世紀美術館の塩田千春の作品です



 

18~19日の間、金沢旅行に行った。コロナの影響で閑散としているものの、割と観光客であふれていた。

観光客というのは自粛していない若者たちである
私たちとおんなじ大学生ばかりで、全員咎められるべき存在なんだろなと思った。しかし、いったい誰が咎めるのだろう。

 

そもそも、どこからがセーフでどこからがアウトなんだろう?「旅行に行く」と「(生活必需品の)買い物に行く」の差はいったい何なのか。不可抗力なら許されたのか?
おそらくその基準となるのは「コロナウイルスに罹患するリスク」であり、移動距離や外部との接触が関係している(ように思う)。
私が旅行に行ってなんともなくても、周りの誰かが私の持ち帰った菌に罹患しているのかもしれない。

 

…とはいえ、コロナウイルスは目に見えず、感染者が多数出ているとはいえパンデミックの認識が難しい。政府は「要請」しかしていないので私たち一人ひとりの取り組みが感染拡大を食い止める鍵となっているわけだ。
多分、私自身の事を咎めている人はいない。私がいろんな記事や言論を見たり、注意喚起を聞くたびに「咎められているぞ」と認識しているわけ

 

ほんと年が明ける前から専門知について色々考えていたけれど、坂本先生のツイートをみて、「なんだ」となった。

割とアッサリ、簡単に解決した。そして昔、ある高校生が韓国ヘイトをまき散らしていた時、見ていられず、同じことを言ったのを思い出した。何を言ったかはわざわざ書いたりしないけれど、今起きている事、これから起こる事はたった一人が次判断して生まれるわけではないといった旨だ。ここでひとつ、先人の知恵をお借りして一つの単語(画像参照)に集約できた。

 

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そうだ、最近研究のための情報収集をしていない。やっぱり冬の寒さはわたしの中の時間を止めるし、春はその反動で浮かれたマインドになる。

 

一つだけ言いたいことがあるとすれば、私が今なにも成し遂げていない(形にしていない)のは、ちゃんと意味があって、外野に怠けてるとか言われる筋合いがないんだということかな

 

自己の在り様の模索というのは、私の感性や取り乱しのなかから違和感を感じ、原因を探求し、言語化につなげてフィードバックするものであって、なんらかの創作物に対して「イッツミー」とか言っちゃう、みたいなことではないんだよなと思う。
逆に言えば創作物に意味を込めなくてもいい。

「美とは何か」と「美しいと感じる心(言語を介さず、理論として成り立たない)」は完全に別ベクトルで、さらに言えば相対もしていない。

 

わたしは誰かに何かしらの影響を与えるために(わかりやすく)形にしているわけじゃない。このあたりの話は、おそらく自己認識論に集結すると思う。やっぱり自己認識論を勉強するべきか?
ここでいつも思い出すのはバタイユの「屈服」という言葉だ。今日の塩さんの「フェミニズムとかじゃなくてさー、そもそも人間としてどうなん」という発言にも近しいものがある。

躊躇したい理由を述べるとすると、自己認識論がわたしの自己認識を手伝ってくれるのであれば問題ないのだけど、ある一つの学問として成り立ってしまう少しの恐ろしさは否めない。

 

ここからは私が3月9日に残したメモの内容である

 

人間はいつ如何なる時も思考をやめてはならない、と思う。
以前ツシマさんと、「怒りをもって行動しなければならない時」という話をしたのが印象に残っている。怒りとは一体どのようにして発生するのだろうか。

さいきんのインターネットにおけるフェミニズム・ムーブメント(と名付けさせてもらう。恐らく私だけの意味を持ち、従来のフェミニズム・ムーブメントとは異なる定義のはず)には特有の傾向があるように感じる。
多分それは、そのムーブメントに携わる人たち(フェミニスト/アンチフェミニスト)だけではなく、政治情勢や学問、芸術にも共通する。

さらに言えばインターネット上でその属性が顕著に現れているだけであって現実も例外ではない。あくまでインターネットは目に見える言語化によって様々なイデオロギーが可視化されているだけなのだから。

 

近年、口酸っぱく謳われている多様性という言葉について考える。無秩序な多様性は存在しない。規律を規定するなら、「互いの人権を侵害しない」は不可欠だと思う。今から使う多様性という言葉は「互いの人権を侵害しない」という主軸に基づいて展開する。

 

閑話休題

 

上記の「特有の傾向」とは一体なんなのかというと、状況の把握・認識、自己認識ができない人ほど怒りを露わにしやすいというものだ。
一つの事象に対する姿勢や意見は多種多様であり、その違いは視点からくるものだと考える。何が正解なのか、ではなくて、どこからどう見ているのか。
恐らく人の視点や正義、倫理観は固定されている。それらはエスニシティーや性別、成長過程の中の環境(ジェンセンとかワトソンでググってください)が影響を及ぼすと思っている。
自分がどの旗の元にいるのか、どういったイデオロギーを持っているのかなどの自己認識を怠ってはいけない。でないと一貫性のない意見になってしまう。

 

じゃ、どうなるのか、どういう認識になりがちなのかという話だけど、まず多様性を結果的に否定している。
この間ハンナ・アーレントの勉強会に参加した時に「自分が悪だと思って行動する人はまず少数派だよね」という意見が出た。
つまり、人はある程度自分の中に正当性や正義を持って行動しているという事だ。その正当性や正義が皆同じものだと認識したり、皆同じベクトルに向かって進んでいる(つまり優劣がある)などと、かなり主観的な思想を持ち、最終的に他者との間にズレが生じるという部分が問題だ。
ある程度の教養(この言葉を使うのが苦手だ)がなければ、自己認識を改める事は難しいのではないかと思う。

 

今これを読み直して、これを書いていた時の私はひどく憤っていて、なかなか恐れげもなく言うではないか~。と思った。
いま思っている事はこのメモの内容とは少し違くて、「わからない」の対処の仕方にその人となりがかなり出てくるのではないかというものなんだけど、それなりに可視化できている気がしている。

フェミニズム・ムーブメントはどうしても「男/女」で区分され関係性の把握に気を取られてしまうけれど、コロナウイルスの場合「我々/未知のウイルス」となるのでわかりやすい。「感染者/非感染者」だとフェミニズム・ムーブメントと同じになる。

 

「未知」には正解がなくていい。そもそも事象には正解なんてないんだけど、特に「物体」として未知を認識できるといろいろ簡単に事が運ぶ。
どこまで何を知っているのか、その情報は正しいのか、認識・把握の後の行動はどのように行うのか…というのに前例がない(あるとは思うんだけど専門知の仕事だったよね)。みんな「自分が」ちゃんとしないといけないから、なんだか一つのレースみたいになっている。
さらに言えばコロナウイルスは命を脅かすので必ず正解が求められる。私がいま重要だと考えている自己認識は所謂不要不急の産物とは違い、必要不可欠だ(冒涜だ!)。

 

どうか、頑張ってください。なんとか持ちこたえてほしい。テクノロジーの進歩で対人コミュニケーションの持つ役割は歪みつつあったけれど、コロナウイルスの影響で世界が少しずつアナログへ向かっている。ので、そこでなにか、コロナウイルス関連以外で得られるものがあったらいいなと思うわけですよ。

 

長くなったな~それでは寝ます。おやすみなしあ