日記 2019年11月6日 火曜日

2019年11月5日 火曜日

 

今日久しぶりに髪の毛を巻いた。

 

叔母の家に母と向かう。
おいしいものをたくさんごちそうしてもらった。とても幸せな時間だった。
そのあと母と買い物に出かけて自主ゼミに行った。
今日は自主ゼミで感じたことを徒然に書いていく。
散文的で一読の価値は正直言ってない。

 

フェミニズムとリブは違うということを前提に、田中美津の「わかってもらおうと思うのは乞食の心」から話を展開する。
時代が時代ということで、フェミニズムを用い戦闘する場合「過激派」になるよねという話から、現代で自らの陣地がどこにあるのか。どのようなスタイルをとっていくのか、信条は何なのか、という話になった。

 

わたしのはなし
私が大切にしているのは「どの視点からみるとどのように感じるのか」が人それぞれ違うということだ。
そして「変容」「揺らぎ」は必ず起こることを視野に入れ、
「人を傷つけない」をポリシーにして自らの在り様を模索している。

 

言語化を試みた部分
田中美津「わかってもらおうと思うのは乞食の心」より

 

道で、自分が男だったら、まず抱く気が起きない、という風な女に出会うと、あたしは無意識に目をそむける。そむけつつ、あたしじゃなくてよかったとまず思う。しかし、自分がその女から目をそむけた瞬間、見しらぬ誰かが、あたしから目をそむけるのが、視える。みめ形よい女に脅える負け犬は、自分とドッコイドッコイの女に出会うとホッとして、自分より分の悪い女に出会うと目をそむける。そむけつつそこに自分を視る。「アザを気にしないで素顔で歩きます」というそのことばに脅えるあたしは、自分の分身が、ひとり自分を解き放していくさまに、とり残される自分を予感するのだ。人から顔をそむけられるばかりで、そむける相手を失ってしまうことへの、それは恐怖に他ならない。
女に対するいとおしみを恐れ、男を中に反目してきた女の生き難さに対する共感と、しかし、できうることなら、その歴史性、その現在と、己れ一人は別れてキレイに傷つかずに暮したいという想いの、その二つの本音がホステス暮しのつらさを嘆息しつつ、他の女を抱きかかえたがるという、ウソッパチにあたしを巻き込んでいったのだ

 

この部分
私はルッキズムの思想があるので、顔にあざがある人や、明らかに私より容姿の劣る人を見るとかわいそうだ、と思ってしまう。
同時に、私より容姿が優れている人を見ると逃げ出したい気持ちになる。これはジャッジではないか、ということは置いておく(私が相手をどう思うかというのはその先の段階だ。あくまで認識として捉える。)
私のルッキズムはコンプレックスから来ている。
コンプレックスはほかにもたくさんあるぞ!
私の「人を傷つけない」ポリシーに基づき、そういう人に対するアプローチの手段はずいんと狭まる。
だから相手の反応を待つしかないため、自己開示の手段に出るのだ。
多分ここは消え去ることのないコンプレックスに対するわたしなりの答えだと思う。

 

そして自分のフェミニズムをどう提示していくかも関わっている。
私はフェミニストとして、自身の在り様を誰よりも先に提示することを心掛けている。
ミソジニストの発言を未然に防ぐことや、私のキレるボーダーラインがどこにあるのか、また、どこまで女性を庇えるか…
つまり責任の話になる。
ここを田中美津から例を拝借すると、あざがある人に、「あざなんて気にしないで生きていこう」と肯定の言葉を投げかけるのは簡単だが、その人がその先に待ち受ける苦難についての責任を負えていないことが問題になっていると思う。
自己開示で「誘発」は可能、その場の「圧力」を作ることも可能だ。
しかし一方でそれは横暴な手段ではないのかと思う。無意識に相手の動きを制限しているのではないかと…。
まとめるのが難しいな。
私は人とのコミュニケーションはいつでも全力で、価値観の相違はそこまで重要じゃなく、こちらが何か言うと相手が何か返してくると思っていたのだ。
しかし、ある人によってはそれを「押しつけ」と感じ、さらに言語化が難しく感じる人にはまるで責められているように感じることもある。
まず人を傷つけない。その先に自分自身を守るスタイルではあるけどカバーに限界がある。
デモやパレードに参加することはいいと思う。自己呈示だもん。

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柿のタルト。絶品。ツシマさん作

メモ
自己呈示と自己開示の話もした。
あとツシマさんに特別って何か聞いてみた。すると、「それを理由に何かが免除されること」と言っていた。

 

ともかく、フェミニストにも戦い方にいろんな違いがあるのだと思った。
そしてパターンも変容する。
先生は一貫性を保つために感情を理性で押し付けると言っていたけれど、私は変容するたびどのような理屈があるのかを理性で考えると言った感じになる。

 

おわり
ホントはまだあるけど長すぎても読み返せないから…

 

帰りに先生が水を買ってくれた、なんかもうほんとにいろいろ迷惑をおかけしてしまっている。ツシマさんにも。
生理でしんどいのですべて書き起こせないけど私自身が覚えていたらいいのだ

 

帰り、駅のホームで証明写真を撮る。痩せたかな?

 

坂本先生のことを考えるのはなぜか考えた。
妄想の中の先生は実体がなくて幽霊だと思っている。
さらにいうなら先生の姿を借りた何かだと思う…

 

なぜ先生を考え、先生に話しかけるのか…
それは、坂本先生を通した私、つまり坂本先生にどう見られたいのか…という自己模索の一環だということに気が付く これはなんか 構造は恋と似てるんだけどな ちがうよな

 

もう考えすぎて疲れたな、と思っていると坂本先生からリプライが来ていた。
先生はいつだって正しくて、私は先生のことを男性だと意識しているのだけど、フェミニズムに関しても、全てのことに対しても、主観的な話はあまりしていない。
多分あれは、会話じゃなくて、社会学を通してこういう風に考えてみるのもひとつだというある種のアドバイスなのかもしれない。いや、思い上がりか。
ともかく、私はその視点がすごく好きで、先生の亡霊に毎日話しかけることで私の主観とはまた違う視点を得ているのだと思う。じゃあ先生の姿を借りなくてもいいのだけど…。
あ~。男性恐怖症を直したい。先生にお返事を打つのに10分もかかってしまった。
そのわり推敲したらたくさんの間違いが出てきそうなほど駄文で、やる気の無い様に見える。

 

もうほんと大丈夫?怒ってないかな、がっかりしてないかな…。
山口先生にしても、坂本先生にしても、わたし、心の距離が近すぎる。
坂本先生に至ってはもうどうしようもないよ~。

 

先生、日記読んでますか?一度でも読んでたら、きっと私の浅ましさがよくわかると思います。どうか幻滅しないでください。お願いです。。

 

もう寝よう、意味わかんね~よバカ。
関西人が馬鹿を遣うのはよっぽどの事よ
私の思考に物申しているのは、それもまた私で、なんだ、十分俯瞰して見れてるじゃないかと思う。
おもうけど、それだけなのだ。